昭和五十六年十一月二十日 朝の御理解
御理解第八節
子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。
二十年も前のことだったでしょうか。菊栄会の方達といっしょに、ここの浮羽郡の一ノ瀬焼きを見てまわったことがございました。今のように、あの大きくなってる、小さい昔の古い釜でしたが、まいりました。そいで、そこには、まあ有名人の方達が色々書いた額皿がね、陳列してございました。
中にね、まさしく合楽の御理解で「天ネン地ネン」と書いた皿がありました。これは昔いわゆるその当時にいただいた御理解。天ネンとは自然の然を天然、地ネンというのは地に念ずるとかいてある。まあそいこそ懐かしいものにっであったようなうれしい思いをした事がございましたけれどもこれは誰が書いたのだろう。これ辞引なんかに引いてある事ぢゃないですから。まさしく合楽の御理解なんです。ここの主人に聞きましたら、先達てから、お医者さん達のグル-プが見えられました時、これは書かれたもんです。とこう言う。ほいで色々調べましたらなんの、田主丸の小野さん婦人科院長であります小野先生が書かれたと言う事が分かったんです。天然、地念。そこにこう出してある。 今朝私はその数十年も前の事を知きりに御祈念中に考えたんです。そして天然地念と言う事のまあ、いよいよ素晴らしい、いうならば、今合楽で言われる合楽理念のまあシンともなるものね。天然、いわゆる自然に起きてくる、それを地念。もう地に念ずる。地に平伏す。いうならば土の信心なんです。もうこれに極まったと言うような意味の御理解を頂いた事を記憶しとります。天然地念。これがもう合楽の信心です。そして私は小野先生の信心をこう、ず-っと思うてみたんですけども、もう数十年間、何十年間、日参をされると言う事で有名なんです。小野孝治先生、ね。非常に邪気のない、童心と言うでしょうかね。そういう、言うならば神様に愛される、何ものかをもっとられる感じなんです。例えて、まだ先生がある病院に勤めとられる時分に、先生方の野球がちょいちょいありました。今度もどうぞホ-ムランを打たせて下さいといったような電話がかかってくるんですよ。もう、こんだきりでよかですけん、勝たして下さい。と言ったような、それが何遍でん続くんです。今だぎりでよかですけん、どうぞ勝ちますようにち言う。それでも神様はね、それを聞いて下さるほどしの内容をもっちゃるです。童心なんです、ね。童心と言うちゃなんですけども、邪気がない。んで、まあ、おかげも受けてみえましたが。いわゆる日参をされる事で数十年間有名ですが、御理解を頂かれないと言う事も又、有名なんです。はじめのあいだは、私はまあ、見えると必ずつかまえて、一口話しよった。話しよっと今度は、向こうの方から話を聞かにゃあんごつなってくるです。なかなか、話が上手ですから向こうの話に、ちゃんとこちらが、話すんじゃないか、聞かにゃんとじゃなかと思うたから、もうこの頃、あきらめてお話をしない事にしとるんです。それを昨日です。福岡の川上さんがお参りをしてみえて。親先生今日は小野先生が御理解を頂きよんなさいました。とこう言うて、ここに又、改めてお礼に出てこられたんです。そして、川上さん、これはうちの家内です、というて奥さんの紹介をされて、奥さんと二人並んで御理解を頂かれておられた。も、知っとられるわけですね。一緒頃に参って来るから。あ、先生参って、そ-っとお願い、我が言うこつばっかり言うちから帰っなはる。御理解一口頂きなさりゃいいのにと、思うけどもいただかずに帰んなさる。所が昨日、奥さん同道で御理解頂かれておられた、と言う事が川上さんとしてはうれしかった。最近は御長男が九州医大、大学を卒業してまあ、こちらに帰っておられますが、今、親子で毎朝、お参りがあります、親子で。そしてね、もう、日参される事で有名であると言うことと、御理解を頂かれないと言う事で有名だと言うふうに、私は今日の御理解を頂いて感じるんです。例えばもう、親の言う事を聞かん子が一番つまらんと。これは信心のない者などはいうなら、神様も和か欄のですけれどもね。信心があって親の言う事を聞かん子が一番つまらん。と言うふうにね教えられてありますですが、どうでしょうか。毎日、日参する事で有名であるにもかかわらず、お話を聞かない事でも有名だと言う事である。親の言う事を一つもきかんと言う事。私は金光様の信心は願いの信心と言われますからね。私はそう、思うんですね。お詫の信心と言う人もあります。もう、お礼だけでよいと言う人もあります。確かにそうです。けども私はそうシンは何といっても願いの信心だと思うです。その願いの信心の願いの中にです。願ったからにはおかげを頂かなければならん。ね。為にはどうぞ、願ったおかげが成就いたしますように、その受けものを作らして下さい。頂かして下さい。と言う願いがあってはじめて願いの信心と言う事が言えるのじゃないでしょうか。ただ、頼む事、願う事と言うだけじゃないです。例えば小野先生じゃないですけども、数十年間、日参されますが、いつも深刻な願いが毎日あります。第一病院の事、ね。特に非常に子煩悩の方ですから、もうお子さんの事をもう、真剣に色々くどいように願われます。だから毎日毎日が、いうならば悩みであり願いでありの、信心が何十年間続いておると言うこと何です。だからその願いの中にです。願ったからには受けなければならん。その受けものを作らせて下さい。と言うそれが金光教の信心であり、神浅間の願いとかいうと言うのはそれなんです。 御理解を聞くと言う事もです。そこんところを作らせて下さる。おかげの受けものを作らせて下さると言う亊の為の御理解と言うてもいいのです。ですから御理解を頂かない子ほどつまらんと言う亊になるのであり、いうならば屑の子と言う亊になるのであり、ふなら御理解を頂いても、皆さんのように毎朝こうやって頂いても、それを頂こうとしない。耳で頂くだけで心で頂かない。身体で頂かないならば、又、頂かないのも同然だと言う亊になるのじゃないでしょうか。願いです。金光様の信心は願いの信心です。為には願ったからにはおかげをうけなきゃならない。そのおかげの受けものを作らして下さい。と言う所に御理解がある。教えがある。ね、どうでしょうか。小野先生がまあ、御理解頂かれんでも、その時分の参ってくりゃ、やっぱりちらちらとその合楽の教えとか、言葉と言うものは耳に入つとる。それが一の瀬焼きに行かれた時に一番頭に閃いたのは、天然地念であったのではなかろうかと思います。ですからその陶器に天然地念と書かれた。だからふなら、これは数十年前の話ですけれども、も、本当に小野先生がこの天然地念に取り組んでの日々であったら、今、深刻な願いの毎日のお参りでなくて、おそらくは一家を挙げての、毎日のお礼参拝が出けるようにおかげを受けた。徳を受けられただろうと思うておしい亊だと思うです。
どうでしょう、皆さん、参っただけ、拝んだだけではね。おかげを受けてもね、いつも深刻な願いをいつもしなければならんです。そういう意味で、私、小野先生の信心はやはり、手本、言うなら神様に愛されるものをもっとられる、ね。にもかかわらず、ふなら、親の言う亊は聞こうとはしない。いわゆる御理解を頂こうとはしない。親の言う亊を聞いてそれを実験して、ふなら、御医者さんとしての御用が出けたら、もう人を助ける亊の言うなら職業ですし、それが教えに基づいて出けたら、絶対御徳をうけないはずはない。ですね。だから、あの天然地念を書かれた時分の亊から、ちょっと天然地念。自然に、いわゆる起きてくる亊をそれこそ、地の心で大地にひれふした頂き方が出けられたら、もう大変な御徳を受けられたんではなかろうか。今でもやっぱり、日々深刻な願いばっかりです。ほとんどが。ね、お礼参拝と言う徒りも、いわばそれも深刻な、私に言わすればそう深刻じゃないですけども、先生にとっちゃ、非常に深刻ならしいんです。シンからやっぱ、しっかり願われるです。ねそして、また、おかげもうけられますけれども、それがいうなら、徳になり、力になると言うことは、私、御理解を頂いていうなら、いうなら、天然地念が、血になり、肉になり、なっておる。小野病院のこれが病院のシンになっておると言うような亊になっとったら、素晴らしかろうと今日改めて思わせて頂くのでございます。ね、神様に愛されるものをもっておる。ならば、その愛されるものがです。ね、親の言う徒を聞かなかったら、親は尚更はがゆい思いをする亊ですよね。いうならば何とはなしに邪念がない。いうなら、おかげの受けれるなんか、内容をもっとられる。それに教えを頂いて、それが育ってまいりましたら素晴らしいのです、ね。いうなら、神様との、いうならお前がおってくれるおかげでと、神がお礼が言えれるなさるような、信者に御取り立て頂いた時に初めて合楽世界があるのです、ね。
皆さんもいうならば願いがあります。願い。どんないうならば深刻な願いでも、大きな願いでもね、さしてもらわなきゃなりませんが、その願うと言う亊はそのまま、その願いを成就する。いうなら、そのおかげを受ける亊の為のうけものを作らせて下さい。と言う願いもまた、一緒になされてその精進がなされなければいけないと言う亊でございます。お互いいうならば、ね、神様に愛されるものをもっておっても神様、ね、神様の言う亊をきかん氏子になってはつまらんです。なら、毎日日参をする。御理解を頂くと言うておつても、その御理解を自分の血に、肉にしていこうとする精進がないなら、やっぱりつまらんです。おかげはいただきますね。けども、あの世にもって行くものがない。この世に残しておくと言うものに育たない。金光様の御信心はどこまでもね、そこん所を願いとしての信心を頂きたいもんですね。 「どうぞ。」
あの-あの、何ち言うかな。マンガは、あ-銀河鉄道の御理解頂きましたね。あれは確かに、あの私、昨日また、改めて見せて頂きましたら、9、9、9、と言うのがあの、スリ-ナインと言う徒だそうですね。私それを知らなかったんです。そして改めて、成程、御理解の深遠さと言うものを感じずにはおられなかったんですけれども。どうでしょう。皆さん、本当にね。あの、軌道をはずれて、そして宇宙に飛び立っていくという、いうならおかげの世界に飛び立たれると言うの為には、先ず、この999、スリ-ナインと言う徒が体得出来なきゃ出来ません。いうなら苦に苦が重なるようにあってもそれをサンキュウで受けれる心。初めて言うなら合楽理念の卒業と言う亊になるです。ね。三つが九ですから、サンキュウと言う徒になるですね。三つが九ですから、サンキュウと言う徒になるでしょう。ふな、また苦に苦が重なると言うような時であってもそれをサンキュウで受けられる心の状態がいうならば合楽理念の、ある意味での卒業だと私は思いますですね。
昨日の御理解をもう一遍思い出して下さい。そしてまあ、今日の御理解からね、なら、何を私共は願おうかと、言うといろんな問題、お願いする亊はいっぱいありますけれども、そのお願いを成就する、受けとめれる、その心を作ると言う徒が、も、どんな場合であっても、喜びで受けられる稽古をさしてもらうと言う願いでなきゃいけないという亊ですね。も、それこそ苦に苦が重なるような時であっても、それをサンキュウで受けられる心の状態を、それをいうなら、理を尽くして、解いてあるのが合楽理念です。だからそれを本当に実験して見ないと、実証してみないと成程お礼を申しあげる亊であったと言う亊になってこないんですよね。 「どうぞ。」